◆いつか立ち上がると 信じて ◆誰かの役に立てることが心の癒し ◆冬の暮らしを守る支援 ◆2千2百万人の悲しみ ◆戦闘の始まり ◆戦闘に巻き込まれた ?! ◆「避難する」ということ ◆避難する人々の上に 降る悲しい雨 ◆支援現場での葛藤と 選択 ◆終わりなき苦悩。 漂流する難民・避難民 ◆正確な情報とは? ◆働く喜び! ◆贈る喜び ◆習うより慣れろ ◆道なき道をゆく人びと ◆終わらない戦争 ◆小さいけれど大切な こと ◆お節介のすすめ ◆思い浮かぶ豊かな自然と人々の顔 ◆柔らかい会議 ◆何を基準に募金を しますか? ◆「おはなし隊」が終わります ◆平和を構築する ジグソーパズル ◆JENとわたし ◆変わらず生き続けている理念
◆プロフィール
オクチャニで始まった戦闘から逃れるため、私たちは『安全な』ザグレブに『避難』してきた。その後ザグレブが砲撃を受けたので、更に、海辺の町リエカへと避難した。 JENが、当時クロアチアで活動の拠点にしていたのは、ザグレブ、ブコバル、オシエク、スラボンスキブロッド、ダルバル、リエカの6箇所だった。事務所探しの際に家賃の安さを優先した結果、町の中心地からとても遠いが、不必要なくらい大きな家が見つかった。それがリエカ事務所だった。
JENリエカ事務所からの望む美しいアドリア海
リエカ以外の事務所に分散していた国際スタッフは、オクチャニに置き去りになっている医師を含めて総勢7名。あてもなく7名で避難したら、宿泊代だけでも大出費のはずだった。だが、たまたまリエカ事務所が大きな家だったことで、リエカに駐在していたスタッフ2人の個室はそのままに、避難してきた私たち6人も、2人ずつの部屋に納まってしまった。
簡単に避難というけれど、私たちが容易に避難できたのは、家(リエカ事務所)も車もある上に、お金もあったからだ。 ここでいう『お金』とは、スタッフ個々人のものを指すのではない。活動の為に駐在している場所で、安全の為に止むを得ず避難したのであれば、必要最低限の資金はJENが準備しなければならない。そして、戦争が続く国で活動する以上、安全を確保する為の資金が出せないならば、危険を冒してはならない。即座に撤退すべきだ。 そういう意味で私たちには、JENが必要と判断した最低限の『避難のために使ってよい』資金が手元にあったのだ。
普通の難民はこうは行かない。 ザグレブへの砲撃は、大掛かりなものではなかったから、本来避難などする必要も無かったのかもしれない。でも、本格的な砲撃があったとして、本当に危ない状況になっても、避難先での生活が保障されないために避難できない人は多い。戦闘が激しいほど、避難期間の予測がつかないので、親戚にも頼みにくい。つまり避難先の当てがあっても住む家はなく、そこへ行く交通手段もない。銀行口座が凍結されていることもあるし、元々貯蓄する余裕もあまりない。そして、貯蓄する余裕がない人こそ車を持っていない。車を持たない人々は、避難の際、手で持てる範囲の荷物が全財産となるが、持てる着替えや食料は量が限られている。戦争で物価も上がり、避難を決める前までになけなしの資金も底をつき、避難先で物資を買い揃えるお金もほとんどない。 だから、出来る限り避難するということ自体を避けようとする。つまり、どうしようもなく危険になって、もしくは家が砲撃を受けて住めなくなって、もしくは失うものが何もなくなったとき、初めて人々は避難することを考えるのだ。
一見平穏に見える街だが、 道路には迫撃砲の着弾痕が残る
そんな過程を経て、やっとの思いでオクチャニの難民キャンプにたどり着いた人々が、再び砲撃にさらされた。それがオクチャニで始まった戦闘だった。 数日間連絡がつかなかったオクチャニの医師にやっと連絡がとれたが、そこにあった難民キャンプの人々は全員、アドリア海に浮かぶ島に移送されるということだった。その島全体が難民キャンプという位置付けだった。クロアチア政府はこの人々をまだ難民として認定しておらず、入国してもらっては困るとのこと。島の海岸線には鉄格子こそないが、難民認定を受ける前の人々を、確実にその場に留めるための場所だった。JENの医師も難民の方々とともに島に移動するという。 私たちは、医師も難民の方々も無事と知り安堵したが、彼らを置き去りにしていたことに強い罪悪感を感じていた。 医師が、オクチャニを出てくる時の様子を聞き、他の情報でも砲撃がおさまったことを確認して、私たちはダルバルに戻った。オクチャニでの戦闘開始から10日が経っていた。
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