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あとで考えれば、その日は最初からいつもと様子が違っていた。そして、その違いがどんな重大な意味を持つかも気づかないくらい、私も同僚たちもアマチュアだった。
この当時、クロアチアには4つの国連保護地域があった。セルビア人の立場からは『クライナ・セルビア共和国』という独立国、クロアチア人の立場からは『セルビア人に占領された地域』のことだ。オクチャニは、東西南北の4つに分かれた国連保護地域の西部にあった。
戦争は陣地取りなので、領土の境界が『戦闘の前線』だ。1994年後半から1995年初頭の国連保護地域西部では、前線を挟んで睨み合いが続いていたが、前線から離れた場所では穏やかな暮らしが営まれていた。
日本からのお客様を案内して視察に行ったオクチャニの難民集団収容センターは、いつものように、難民の移動を請け負う業者のバスに揺られ、たどり着いたばかりの人々でごった返していた。迫害を恐れて何ヶ月も地下室で暮らし、栄養も体調も精神も極端に悪い状態で、文字通り命からがら逃げてきた人々。JENは、ここで暮らす難民の人々の生活全般と診療の支援をしていた。
私たちはその日、難民の人々の来し方行く末を考えながら心も重く視察を終えると、車で30分ほどのところにあるダルバル事務所に戻り、夜を過ごした。

難民や国内避難民は戦闘や迫害から逃れて来る。だからその支援は前線から離れた穏やかな場所で行うことが多い。そんな所で支援活動を続けていると、戦闘は日々の暮らしからは遠い。私たちが戦闘を生活の中に実感するのは、軍服を着た人を街中でたまに見かけた時と、国連保護地域への検問所を通過する時くらいだった。
それなのにその日は、それまで見たこともない数の兵士を見た。軍服を着た人がダルバルにもダルバルからオクチャニに向かう道沿いのカフェにも、とにかくあふれ返っていた。高速道路を、大勢の兵士を乗せた軍のトラックが何台も通った。
翌朝7時半頃起床してみると、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の人からのメモがドアの下から差し入れられていた。目が覚めたら直ちに電話を欲しいとのこと。なぜ向こうから電話しないのだろう、といぶかりながら電話をすると、なんと昨日訪れたばかりのオクチャニ周辺の国連保護地域西部で戦闘が始まったので、直ちに避難してほしい、というではないか。未明に戦闘が始まった時点でダルバルの事務所に電話をくれたが、全員眠りこけていて気づかなかったらしい。緊急事態を伝えるため、急ぎ事務所まで駆けつけてくれたのに、いくらドアをたたいても誰も出てこない。仕方なくメモを残してくれた、ということだった。
オクチャニの難民集団収容センターでは、難民の人々はテント生活をしていた。塹壕もないセンターでは砲弾が着弾すれば逃げ場がない。難民の人々は無事なのか。JENの診療所に泊まり込んでくれているお医者さんは無事なのか。無事だとしたら、やっとの思いで砲撃や迫害を逃れてきたはずの人々は、間近に迫る砲弾の音をどんな気持ちで聞いているのか。
外に出て耳を澄ますと、遠くに砲撃の音がかすかに聞こえる。昨日見かけた驚くほどの数の兵士達。カフェでコーヒーやビールを片手に談笑していたあの人たちが戦闘を仕掛けたのだ。10年以上もこの活動を続けた今の私には、大量の兵士を見れば近いうちに戦闘があることはすぐにわかる。破壊された家に入れば、地雷が仕掛けられているかもしれないと予測できるし、建物の破壊の様子を見て爆弾の種類も判別できる。
あの時判っていたら…と今思うのだ。もしあの時、戦闘が始まる前に予測できていたら、オクチャニの集団収容センターで恐怖に身を縮めながら、神に祈るしかなかった人々の為に、何かをできていただろうか。

急いでホテルまでお客様を迎えに行き、事情を話し、その日の予定を全て取り止めて一路ザグレブへと避難した。普段通っている高速道路は戦闘の影響を受けている可能性があるので、初めての道を地図を頼りにザグレブへと向かった。着いた時には既に日が傾いていた。その夕日が沈む西の空の向こうにオクチャニがあった。
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