◆いつか立ち上がると 信じて ◆誰かの役に立てることが心の癒し ◆冬の暮らしを守る支援 ◆2千2百万人の悲しみ ◆戦闘の始まり ◆戦闘に巻き込まれた ?! ◆「避難する」ということ ◆避難する人々の上に 降る悲しい雨 ◆支援現場での葛藤と 選択 ◆終わりなき苦悩。 漂流する難民・避難民 ◆正確な情報とは? ◆働く喜び! ◆贈る喜び ◆習うより慣れろ ◆道なき道をゆく人びと ◆終わらない戦争 ◆小さいけれど大切な こと ◆お節介のすすめ ◆思い浮かぶ豊かな自然と人々の顔 ◆柔らかい会議 ◆何を基準に募金を しますか? ◆「おはなし隊」が終わります ◆平和を構築する ジグソーパズル ◆JENとわたし ◆変わらず生き続けている理念
◆プロフィール
キャンプから親戚や知人のところへ 向かうボスニアの難民の人々
同僚が休暇を取ってボスニアに行った。交流プログラムで桜の苗木を植えるのだという。今頃の季節、ボスニアは雪融けのはず…と夢想が始まる。1994年から6年間の旧ユーゴスラビア駐在の内、後半3年間はサラエボに小さなアパートを借りていた。私にとって第二の故郷(ふるさと)みたいな土地だ。今年の春は早いのだろうか、あの人は元気だろうか、私の体は東京にいるまま、心は既にサラエボに飛んでいる。
JENは1994年の活動開始当初、戦闘が激しいボスニアには入れず、クロアチアと新ユーゴスラビア(現在のセルビア・モンテネグロ)に計5ヵ所の事務所を置いた。日々、ボスニアでの戦闘の様子がニュースに映し出される。治安情報を得るために国連保護軍の話を聞きに行き、その度に新しい地図をもらってきたものだった。地形は変わらないが、地図に描かれている戦闘の前線の位置が動くので、地図はいつも最新でなければならない。そして前線が大幅に動き、つまり活発な軍事行動が行なわれるとき、大勢の市民が難民となるのだった。 難民としての暮らしはどんなものか、皆さんには想像がつくだろうか。
難民キャンプの子どもたちと
突然戦闘が始まったので、十分な食糧の備蓄はない。電気、水、ガスが止まり、高層アパートの20階に住んでいても給水場所まで水を汲みに行かなければならない。調理する薪もないので壁板や床板をはがして、手作りの薪ストーブにくべた。銀行預金は凍結されて現金をおろすことが出来ない。その他の資産も凍結されてしまう。勤めている工場も開店休業で、給与も支払われない。食料も底をつくが買うお金がない。車も砲撃を受けて使えなくなってしまう。そんな暮らしを何ヶ月も何年も続けた上に、いよいよ身の危険が迫っていると感じたとき、遂に人々は手に持てるだけの荷物を持って長年住んだ家を後にする。国境を越えて避難したとき、人々は難民と呼ばれる。 一人の人が難民となるとき、本人と家族と親戚と友だちの数十人数百人分の深い悲しみがある。そして旧ユーゴ紛争では2百万人が難民・避難民になったといわれている。旧ユーゴ全体での人口は約2千2百万人。避難した人も残った人も皆それぞれの深い悲しみを背負ったのではないだろうか。 少しでも安全に暮らせる場所を求めてやってきた人々。難民集団収容センターや様々な場所でその方々の支援をしながら私たちは、一日も早く戦闘が終わることを願わずにいられなかった。毎日の様に停戦合意が調印されたというニュースが入る。ほぼ同時に停戦合意が破られたというニュース。文字通り一喜一憂した。
サラエボ市内の壊れた建物
JENが旧ユーゴでの活動を始めて4ヶ月もしない内に、前線の活動が活発になり、少数派民族が迫害を受けて3万人もの人々が難民となる、という出来事があった。同じ頃、クロアチアのオクチャニという町に向けて、人々が避難してきた。健康状態も受け入れ状態も余りに悪く、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)から、緊急支援のプロジェクトを引き受けてくれと頼まれた。ダルバルという町に新しい事務所を開設し、私たちは支援を始めた。 1995年4月30日、始まったばかりのダルバル事務所の活動を見て頂くために、日本からのお客様をご案内した。その時、事件が起こった。
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