2004年12月26日、スマトラ島沖で巨大地震が起こり、津波が各国を襲った。数時間の内に12カ国に到達し、24万人の命を奪った。
その年の12月30日、私は二人の同僚と共にスリランカに向かった。津波の被災者を支援するためだ。一緒に行ったうちの一人は、ヨルダンからの一時帰国の途中だった。12月27日に電話した時は、彼女はまだアンマンにいた。あと3時間で空港に向かい、日本に帰ってくるという。津波が起きたことはすでに知っていた。
私は、「JENは出動することにしたのだけど、初動調査と立ち上げの為に私と一緒にスリランカに行ってもらえないか」と聞いた。「私で役に立つなら」と健気な答え。28日に日本に着いて、翌日の出発では体力的にも厳しいだろうと言うことで、30日の出発となった。
かわいそうに、彼女は駐在していたヨルダンから、約一年ぶりに一時帰国して、年末年始を家族と一緒に過ごす予定だった。でも、それが私たちの仕事であり、彼女もそれをしっかりと理解し、迷うことなく決断してくれた。
仕事に関しては特に不安もない。何をやったって困難や問題はつきものだから、問題があれば解決すればよいだけのこと、そんな開き直りでこれまでも切り抜けてきた。でも、被災地に向かう時、私はいつも不安だ。どれほど悲しい状況が待ち受けているのかは予測が付かないからだ。

到着したスリランカのコロンボは、特に変わった様子はない大都会だった。大災害や紛争の被災地では壊滅的な危機に瀕していても、少し離れた場所では普通の生活が営まれているということはよくある。スマトラ沖地震による津波ほどの大規模災害の直後でも、夜中というのに、コロンボの空港は人でごった返していた。
最初に訪れたのは、タコナハルと言うスリランカ北東部の小さな漁村だった。津波で家が跡形もなくさらわれてしまって、妙に広々とした空き地のような所をスリランカ軍の兵隊達が消毒をしていた。常夏のスリランカでは、何もかもがすぐに腐敗を始める。そこから疫病が流行らない様に消毒して、生き延びた人たちを守るのだ。海岸から1km近く離れた場所では、波にさらわれずに家が残っている。どの家の外壁にも一様に、高さ2.5mほどの位置にくっきりと津波の痕跡が残されている。もう5日も経つというのに。地形の関係で池の様に水が溜まっている所には、まだ収容できない遺体があるという。消毒液の臭いと腐敗臭、死臭と海の潮の香りが混ざり合って、忘れられない臭いがそこらじゅうに漂っている。
海岸線を何時間も車で走っても、瓦礫の山と化した町並は延々と続いている。車を止めて話を聞けば、8人家族で6人の行方がわからない、2歳の息子が波にのまれた、とそれぞれの話を聞かせてくれた。

厳しい状況の中で、人々は無力に見える。だがいつか、人々は立ち上がる。それを支えるのが人と人とのつながりだ。津波で断ち切られたつながりは元に戻らないが、悲しみの中で支え合う人々は、新たなつながりを作り出してゆく。そのつながりは、平和な場所から来た私たちをも勇気付けてくれる。
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