運転をしていると、窓の外の道ばたに咲くエンジェルス・トランペットの花に目をうばわれた。鈴なりのその花々を天使がくわえて吹き鳴らしている図を想像したら、ふっと幸せな気分になった。しかし、今年ほど平和のエンジェルが世界中に舞いおりることを切望された年はなかった。往診の道すがら、あれこれと思いはうかぶ。
私たちの多くは、平穏な一日がまた明日も続くだろうと、ぼんやりではあるが信じている。でも、一日の終わりに居ずまいを正し、今日の平和を心より感謝するなどという敬虔なライフスタイルからは遠く離れて暮らしている。
健康についても同じで、まさか自分が生命のあやぶまれるような重い病気にかかるとはふだんは想像できない。私はその“まさか!”が起きてしまった方々と出会うのが仕事なので、ある日突然、足場を失い大きく変わってしまう瞬間を傍らからみつめて、深く考えさせられる。
エリザベス・キューブラー・ロスという精神科医は30年ほど前に、がん患者の受容に至る道すじを、【1】ショック(まさか!)【2】否定(なぜ私が!)【3】取り引き(せめて〜まで生かせて下さい)【4】うつ症状(あきらめ)【5】受容、と説いた。30年の間に、このプロセス論に反論も出ているが、当時の医学界での死のタブーに、ひとりで挑んだロス女医の勇気を、私や仲間は尊敬している。

家で過ごすことを選んだ50代の男性がん患者さんが、ある日私にこう訴えた。
「なぜ、日に日に体力が落ちるのか? 先週はフロにも入れた。マキを運べた。今日はもうトイレまで歩くのがつらい。なぜ? これでは困る。しゃべるのもつらい。目も暗くなった。何の役にも立てない。生きてる価値がない」
「ここにいて下さって、奥さんはとても喜んでますよ。しゃべれなくても、今、ここにいることが大きな仕事です。ただ、体力は今が80代。これから、90代に向かうかもしれません」
「うん。80代かもしれないなあ。そうだ!」
と、いったん納得しかけて、またくり返した。
「でも、困ります。身の置き所がない。投与してくれた薬のおかげで、痛みはない。でもあせります。落ち着きません」
「座ったり、歩いたり、トイレに行ったり、寝たり、5分おき位に?」
「その通り。見てたんですか?」
「いいえ。でもそういう人をたくさんみました。おうちで、いつものペースでの暮らしだから、今のこの状態もまた、いのちの自然のプロセスだと思います。でも、いきなり80代といわれても、つらいですよね。奥さんはだいじょうぶ?」
「私はだいじょうぶ」と、妻はけなげな笑顔をみせた。
本当はもっと歯切れよく言いたかった。「このじれったさは、肉体に残った最期のエネルギーと、心のエネルギーが、バランスを失った結果起きていて、おそらく“旅立つ前”のひとつのプロセスではないか?」と。
“スピリチュアルペイン”という専門家もいる。
「お産の痛みと同じで、トンネルを抜けるための、本人が味わうべき痛みかも……」と言ったら、「脱皮の痛みですかね?」と、あまりにスピリチュアルな返事をして下さった患者さんも今までいた。

メメントモリ(死を想え)という格言から遠い暮らしぶりをしている現代人の私たちが、死をみつめる時間を与えられたとき、その淵はとても深い。
エスペランザ(希望)の動詞型は“望む、待つ”というエスペラールになるとどこかで読んだ。私もじっと待つしかない。
2日後、休息のように深い昏すいの眠りの中にいるその患者さんは、静かにほほえんでいた。彼はやっと、いのちの“希望”に出会えたのだろうか?
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