娘の小学校の運動会の開催日が年々早まり、夏休みが終了するとすぐ校庭での練習が始まる。猛暑の中、まっ黒になった子ども達が、競技に、踊りに、めきめきと腕をあげている様子がうかがえる。小学5年生の娘は家に帰ると、高校2年生の兄の冷たい視線をはね返し、その日学んだ踊りを披露してくれるので、上達ぶりがよくわかる。
担当の体育の先生に恵まれて、よい指導を受け、毎年彼女の学年120人の踊りは本当に見事だ。去年は自分たちの手作りのたいこと衣装で沖縄の祈りの踊りを見せてくれた。今年の「よさこいソーラン節」も迫力があった。私は上のふたりの子どもの卒業式に泣いたことはないが、去年も今年も、120人の健康な子どもたちの元気な姿を見て、思わず涙があふれそうになった。なんという幸せか、とつくづく感じてしまって――。

つい先だってのロシアでの悲惨なできごとは、世界中の親たちの心をしめつけた。大切ないのちを一生懸命育んできた者なら誰だって、人種も宗教のちがいも乗り越えて共有できる底なしの悲しみ。この思いを、地球を守る、たおやかなつながりにできないものか、と心から願う。
ボスニアでの血と憎しみの連鎖のあと、やっと、人種・宗教のちがう子ども達がいっしょに学校で学び始めた。偏見と恐怖にとらわれた子ども達が、手をつなぎ、歌い、踊り、演じることにより、心が通じて壁がくずれ始めたと報告された。壁の先にあるのは「希望」であってほしい。芸術は、私たちの魂にいのちをふき込む力を持っている。

物質的な豊かさを誇るアメリカで子供たちの世界に何が起きているのか? 5年ほど前に、コロンバイン高校で、高校生ふたりが、自分の高校で188発の弾丸を乱射し、13名の生徒を殺害。ふたりはその場で自殺した事件だ。
ここでは、その事件についてくわしくは触れないが、この事件を体験した生徒の詩を、心理学のJ・ミラー教授が紹介している。

ミラー教授は、大いなるものへの尊敬の喪失と、魂への働きかけの乏しさが、大人も子供も闇へつき落としていると語る。
解決への即効性の処方はない。私にはこんなことしか思いつかない。子どもと一緒に絵を書く、いっしょに手をつないで踊る。歌う。花を育てる。同じ景色をみる。
子どもの目が、生き生きと私たちに語りかけたときこそ、私たちが子どもの魂のチャンネルにつながるチャンスなのだと思う。それはほんの一瞬。でも永遠へとつながるかけがえのない一瞬でもある。
「忙しいから、あとで」は禁句。
“忙”は心を亡くすということではないかしら?
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