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バスタブにお湯をいっぱいにする時。コップにお水をナミナミと注ぐ時。暗くなってゆく部屋に明かりを灯す時。凍える部屋にひとり、暖をつける時。ふと、もしも、このわたしの部屋に、お水が、電気が、ガスが、届かなくなったら――、などと考える時があります。想像しただけでも、困ったなぁ! めんどうくさいなぁ! もっと云えば切ない気持ちにさえなってきます。しばらく前、ガスの安全装置が働いて、冬の明け方、仕事場でガスの供給がストップして、寒い中で、どうして仕事を続けようかと、パニックになった事を思い出します。その事を考えただけで、いつもあるものを突然失う時の困惑ぶりは、たいへんなものだろうと想像できる事に気が付きます。記憶に新しいのは、少し前のニューヨークの停電です。いつもあるものと信じている電気が止まった時、地下鉄はストップし、エレベーターの中に人は閉じ込められ、便利と云う言葉でひとくくりにされた、あたりまえになったものは全て動かなくなって、人はびっくりして困り果て、悲しみや恐怖さえ感じるのです。

流れ者でいたい。いつでも旅立てる用意のある自分でいたい。それがあたりまえで、それが自由だと、ずっと思ってきました。風来坊が理想の姿だったのかも知れません。安定されたものをうっとうしいと感じていました。だけど、この頃、少しずつだけれど、いつもあるものの大切さ、嬉しさ、安らぎと云うものに気が付き始めました。それは、もちろん、平和だったり(安全な社会、安定した経済や)、愛情だったり、約束が守られたりすることですけれど、その意味の深さをつくづくと感じる時があるようになったのです。
考えてみれば、もっと若い時は、何も無い、誰も信じない、いつもひとり、なんて云う過激な思い過ごしの中に身を置いて、青春という修行をしていたのかも知れません。今、少し大人になって、と云うよりも――、少し年を取って、心のトゲトゲが小さくなって、心が無防備になってきているのかも知れません。安定供給される平和や愛情の大切さを、こんなにも思うわたしになるなんて、想像もしなかったことですけれど――。
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