
私たちの生活に欠かせない「言葉」。普段ごく自然に何の疑いもなく使っているが、これがかなり“くせもの”なのだ。使い方一つで太陽になったり、北風になったり、ときには人を刺す刃となったりする。まさに、「丸い卵も切りようで四角、物も言いようで角が立つ」という言葉どおり、使い手によっていかようにも変化する。
例えば、本をよく読み、スリムでメガネをかけた女性がいたとする。その彼女を表現するのに、「あのお嬢さんは勤勉でスタイルもよく、メガネがよく似合う」という言い方もあれば、「あの女性はガリ勉で近眼。骨張って色気がない」という言い方も出来る。
私がその女性なら前者の表現でお願いしたいところだが、これは言われるほうの希望通りにはいかず、いつも言われ放題。短い表現でもその中には言葉を使う人の育ち、性格、感性、表現力、言葉のセンスなど、全人格が反映されているので、なかなか抵抗するのは難しい。
不肖、私がアナウンサーになって大いに悩んだのはこの点だった。テレビの場合、ほとんどの人は私の性格や人となりを知らないため見た目だけで判断する。たまたま私は美人ではないので、投書などでの言われ方は「不美人だ」はもちろんのこと、かなり悲惨な状態だった。この経験から私は、“決して人を見た目で判断するまい”と、固く決心をしたほどである。
しかし人間同士、お互いの理解が深まると、同じ表現でも印象が変わってくるものだ。後年、長時間のラジオ番組を担当し、テレビとは比べものにならないほど話す時間が増えると、リスナーは私の表面だけでなく内面まで分かってくださったのだろう。投書や電話でのやりとりを通じ、こちらも相手に対して理解が生まれ、かなりなことを言われても笑って済ますようになる。
言葉はコミュニケーションの度合いによって、表情や意味合いが変化していく。まさに「生き物」。生かすも殺すも私たち次第なのだ。
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