
HIV・AIDSの正しい知識、そして電話相談員としての研修を受けた私は、早速電話相談をするようになりました。
ボランティアは計3年間続け、電話相談だけでなく、事務作業の手伝い、啓発活動を兼ねた路上でのコンドーム配布、国会への陳情、感染者・患者へのケア・サポート(病院への付き添いなど)などさまざまな活動に参加するようになりました。そしてボランティアを初めてから4年目には、この団体の専従スタッフとして1年間働きました。
私が始めてケア・サポートを担当したのは、血友病患者の男性でした。病院への付き添い、入院中のお見舞い、そして元気な時は他のボランティアと一緒に居酒屋に行くこともありました。ケア・サポートは感染者・患者の人生の深いところにまで関与します。人生経験が浅く、苦労らしい苦労をしたことのない私は、彼らの苦しみとどう向き合って良いのかわからず悩み苦しみました。若さゆえの傲慢か、私は人の苦しみをどうにかしてあげられると思っていたのです。そうではなく、苦しみを共感しようとすること、そしてそっと見守ること、それだけで良いのだと思うようになったのは、その男性が亡くなった後でした。
当時日本のHIV感染者の多くが血友病患者でした。血友病とは、血液の中の凝固因子が不足しており、出血した場合止血しにくくなる病気で、患者の多くが男性です。治療として血液から凝固因子だけを取り出した血液製剤が用いられるのですが、その中にHIVウイルスが混入していたのです。1980年代に入り非加熱製剤のウイルス混入の危険性が叫ばれ、ウイルスを不活性化した加熱製剤が開発されていたにもかかわらず、日本では開発から2年4ヶ月以上もの間非加熱製剤が使われ続け、血友病患者の約4割(約2千人)の人々がHIVに感染しました。さらに悲劇は続き配偶者への二次・三次感染も起きたのです。
被害者とその遺族は1989年に非加熱製剤の危険性を認識しながらも、それを認可・販売した厚生省と製薬会社に対し損害賠償訴を起こしました。原告団の中には実名公表をする人もいました。偏見と差別の中で実名公表をするというのは並大抵のことではありません。しかしそのことで市民が薬害AIDSに関心を持つようになりました。『あやまってよ95』というスローガンの下、学生らが中心になってさまざまな活動を行い、1995年7月には約3千人以上の市民が人間の鎖となり、厚生省を取り囲み、全面解決を訴えました。
私もこの人間の鎖に参加し、また原告団と一緒に国会議員事務所への陳情、署名活動なども行いました。私一人ができることはほんのわずかですが、多くの人が集まればそれは大きな動きとなり、社会に大きな影響を与えることができるのだと、この活動を通して実感しました。そして社会問題に対して“無関心”でいるのは止めようと思いました。“無関心”がさらなる悲劇を生み出すことを知ったからです。
被害者そしてその家族、彼らを支える人たちの努力の結果、1996年に国が責任を認め、謝罪し和解が成立しました。
現在はAIDSの薬の開発が進み、副作用があるなど個人差もありますが、感染しても薬を服用し栄養・体調管理をすることで、長期間AIDSの発症を抑えることができます。今や先進国においては、AIDSは慢性疾患のひとつと言えるでしょう。発症を未然に防ぐためには早期発見、早期治療が重要で、そのためにも抗体検査を受け、一日も早く感染しているかどうかを知る必要があります。
血友病だけでなく、同性愛者、性同一障がい者など、私はボランティア活動を通して、これまで出会ったことのなかった人たちと出会いました。感染後、恋愛をする人、結婚し子供を授かった人、仕事で活躍している人、そして、感染者・患者を差別することなく普通に接している人にも出会いました。
そんな人たちと接するうちに、私の中にあったHIV・AIDSへの偏見は消え、AIDSノイローゼもなくなっていったのです。
<写真提供:マツバラヒロコ>
*HIV・AIDSに関する詳しい情報は以下のサイトをご覧ください
HIVと人権・情報センター
http://www.npo-jhc.com
HIV検査・相談マップ
http://www.hivkensa.com/index.html
*参考書籍&ウェブサイト
『知っていますか?AIDSと人権一問一答 第3版』
(屋鋪恭一・鮎川葉子著 解放出版社)
はばたき福祉事業団
http://www.habatakifukushi.jp/yakugai.html
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