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決して枠外に飛び出さない限り、何か一種洗脳的で、人間形成の礎となっているのか、やがて夢の世界に戻り感応している時、真に安穏の居場所だと思えるのだろうか、現実的に目に見えている事実、家族に恵まれていて、過分な幸せを頂いている。
至高の幸福になってくれと、金品ではなく心の救われ、心は何をもって救われたことを意味するのか、何ものにもとらわれずいつも静かに笑っている境地だろうか、見えないが、実は、心は見えていて分かりやすいものかもしれない。
苦悩、悲痛に始まる煩悩、心の欲も無ければ成長も伴わない。苦境に見える人が心は満たされていて不幸でなく、幸せに見える人が泣いている不幸もある。
宗教の心の救われは永遠のテーマ。

心を幸福にするのは、存在する今の自分での感謝、何気ない優しさの行為に気づくこと、善意から湧き出るその仏性は確かにあって、苦言であったり、何かを心のシグナルとして表わし、心と心で世の中へと展開している。嫌なことでもドアを開けて次の空間に出た時には、心を切り替える逞しさを鍛えるほどの忍辱(にんにく)を養う。
佼成会の開祖さまは、若くして全て神仏のおぼしめしと受け止められたのに、居心地の悪い瞬間に心も閉鎖してしまうわがままな自己中心が発揮する自分が居る。
ある種、皆、わがままを言い、自己の幸せを得なければ他への幸せは無いと、奉仕サービス、菩薩行ボランティア、介護を受けるよりする側が救われたり、悩みを打ち明けられた側が悩みから抜け出たりする妙な世界。

救う側が救われている話を聞く心の世界。持ちつ持たれつ社会の仕組みのように、支え合ってこの世は成り立っている。隣の苦言を放つ人に支えられている網目模様の人間関係、気の合う人が気の合わない人と友だちだったりする。縁によりて起こる不思議に見える全てが和合してつながり、どの入り口からも到達する人格完成への無駄のない道程、全ての人生に乾杯。
とにもかくにも希い生まれて幸せな顔を神仏に見ていただこう。
夢に題し、夢心地の機会に報えずSorry! |