全盲のケニア人指圧師
フィリゴナ アチョラさん(35歳)
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フィリゴナ アチョラ(Filigona Achola)、通称フィリさん。アフリカ国籍では第一号の日本の国家資格を持つ、全盲のあん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師。 |
●突然の事故
「治療法はありません。近いうちに両目の視力を失うでしょう」
小学3年生(9歳)の時、近所の男の子が蹴ったサッカーボールが目に当たり、フィリさんは視力を失った。
病院で診断されてからすぐに、ナイロビ郊外にある寄宿舎制の盲学校へ転校した。娘が全盲になることを両親は嘆き悲しんだが、視力が徐々に失われていったのと、盲学校では目が見えないことは特別ではなかったため、フィリさんは自然な身体の変化として受け入れることができた。ボールを蹴った男の子を一度もうらんだことはない。
ケニアの視覚障がい者の置かれている状況は厳しい。弁護士や教師として活躍する人もいるがわずかだ。多くの場合は家族の世話になるか、貧しい家庭では物乞いをせざるえない場合もある。ケニアには点字本が少なく、専門書や大学の教科書の点字本はないに等しい。音読ボランティアも少ないため、経済的に裕福でなければ、本人が希望しても大学進学への道は閉ざされており、また大学を卒業できたからと言って確実に仕事があるわけでもない。
「語学が好きだから、フランス語の先生になりたかった」
フィリさんは盲学校高等部を卒業後、お姉さんの家に居候しながら、何校もの教員養成学校へ入学の問い合わせをした。しかし返事さえもなかった。家の手伝いも、働いてお金を稼ぐこともできない。将来への希望を見い出せず、家にこもってばかりいる生活が4年間続いた。
●指圧、そして日本との出合い
そんな時、フィリさんに朗報が入る。日本の盲学校でマッサージを勉強する視覚障がい者を募集しているという。フィリさんはすぐに応募し、見事試験に合格した。
フィリさんは、1996年から3年間、神奈川県立平塚盲学校に留学。あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の国家試験を一度で合格し、周囲を驚かせた。
日本では友人ができ、冬の苗場をソリですべり、観光で京都へ行き、留学を終えケニアへ帰る時は、日本を離れたくないと泣いた。
そんなフィリさんだが、日本に来た当初は、「ケニアに帰りたい」と、毎日泣いてばかりいた。日本語での授業は全く理解できず、日本の習慣にも戸惑うばかり。それでも、周囲の人々の励ましとフィリさんの頑張りで、3ヶ月後には日本語が理解できるようになり、少しずつ授業も日本の生活にも慣れていった。
「指圧の仕事は身体を使うので疲れるけど、この仕事が好きです。いろんな国の人に出会って、いろんな話をするのが楽しいし、お客さんが私の指圧で元気になってくれるのが嬉しいです」
現在、フィリさんはナイロビ市内のホテルや出張サービスで指圧師として働いているが、帰国後すぐに指圧師として働くことができたわけではない。当時、ケニアでは指圧は医療行為とみなされ、そして視覚障がい者による医療行為が禁じられていた。ナイロビ在住の日本人や当時の日本大使が関係各所に働きかけ、フィリさんは厚生大臣に指圧をする機会を持ち、そしていろんな人たちの努力が実り、アフリカ第一号の指圧師となった。
●指圧師としてのこれから
数年前から、フィリさんの後に続く指圧師を育てようと、日本から指圧師がケニアに来て指圧研修を行っている。現在、研修を受けた視覚障がい者たちは、フィリさんと同様にナイロビ市内で指圧師として働いており、フィリさんはそんな後輩たちへ指導やアドバイスもする。
フィリさんはナイロビ市内で弟と二人暮らし。アパート代や生活費はフィリさんが指圧で得る収入でまかなっており、まだ学校へ通っている小さな弟妹たちへの学資援助もしている。
「働ける間は一生懸命働き、お金を貯めて小さくても良いから自分の家を持てたらいいな。私の夢は、歳を取ったら自分の家で、自分の貯めたお金で、誰にも迷惑をかけず、静かに生きることです」
“誰にも迷惑をかけず静かに生きる”、それは簡単そうだが実はとても難しい。失業者が多く社会保障がないに等しいケニアで、障がい者が誰にも頼らず生きていくのは並大抵のことではない。フィリさんは指圧を通して、障がい者があたりまえに生きていける社会を実現しようとしている。
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